自由の刑

"我々は逃げ口上もなく孤独である。

そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。

刑に処せられているというのは、人間は自分自身を作ったのではないからであり、

しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げ出されたからには

人間は自分の成すこと一切について責任があるからである。

- Jean Paul Sartre "


フランスの哲学者サルトルは、人間には本質がなく、

故に人間は実存としての行為が、自分自身の本質を作っていく

実存が本質に先立つ存在であると主張した。

人間は生まれた時、あらかじめ本質を持っていない。

だから人間とは、自ら創りあげるものに他ならず

その意味では人間というものは自由である。

しかし自由であるが故、世に放り出されたその時から、

行うことすべてに責任を問われ、人間は絶対的に自由であると同時に、

その自由に対して責任を負わなければならず、

わたしたちは生きている以上は、選択することからは逃れられない。

自由の刑に処せられているということらしい。


サルトルは、実存は本質に先立つという言葉の説明のために

ペーパーナイフを例えに使っている。ペーパーナイフは存在する前に本質がある。

作られる前に紙を切るという目的があり、

その目的のために作られている。目的の方が存在よりも先にあり、

ペーパーナイフは目的が存在に先立つということだ。

すなわち目的があってモノは存在する。

われわれ人間とは反対に、本質が実存に先立つのだ。

人間は世に放り出され、目的を持って作られた訳ではないのに存在してしまう。

生きていく上で、何のために存在しているのかを自身で作らなければならない。

人は人間として生まれたのではなく人間になるのだ。


彼の代表作の”嘔吐”の中で、ロカンタンが公園のマロニエの根を見て

嘔吐を感じる場面がある。彼の感じた吐き気は何だったのか。

それは世界が単純に存在しているだけであることが原因で催したもので、

全ては偶然で無秩序なもので、必然的な存在理由が無いということを

直観的に悟ったことによる気持ち悪さだったのだ。

宇宙におけるありとあらゆる存在はとてつもなく重いように感じる。

しかし、存在する一つ一つの物は偶発的な物でしかなく、

いかなる必然性も持たない単なる存在でしかない。


"私は、いかなる必然性をも持たない単なる存在である。

この事実に気づくとき、人はみな堪えられない吐き気を催すのである"


無限の選択肢を目の前して生きていく中で、途方に暮れ、

その自由の重さに直面したとき、大きな不安を感じる。

サルトルは、この不安や吐き気のような感覚を、

私たちが自由であることを実感する瞬間だと考えた。

人生の意味がわからなくなった時に感じる不安や恐怖、

それらは私たちが自由であることの証なのだ。

私たちは日々、何かを選びながら生きていかなければいけない。

これらから逃げずに向き合うこと、自身の選択に責任を持つこと、

主体的に生きることが人間としての宿命だからだ。


Ashoka


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