人生とは現象の連続でありその幻影である
人生という幻想に、いつかわたしは気付ける時がくるのだろうか。
馴れ親しみに親しんだ五感という便利な機能、私が見たこと、聞いたこと、
触れたこと、嗅いだこと、味わったこと、それらによって起こされる五情から
わたしは喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、そして時に誰かを怨む情さえも生む。
五感によって我々が作りあげているいわば幻影に、我々はまんまと騙されているのだと
知ることが、不幸を手放すことの智慧になると仏陀、そしてパタンジャリは
紀元前から述べている。
五感から受け取っているそれらの作用とは、刺激のようなもので、
例えば嗅覚という感覚器官に何らかの刺激がくれば、わたしは匂いを嗅いだと認識する。
触覚に何らかの刺激がくれば、わたしは何かに触れたと認識する。音や味も一緒である。
では視覚はどうだろうか。人間の認知機能のおよそ80%を占めるという視覚機能で
わたしは一体何を見ているのだろう。
他の器官と同様に、眼球から何らかの刺激を受けたときにわたしの視覚に広がっている
“見ている”と感じているその刺激とは何かを考えると、
どうやらこの視覚機能が人生における最大のトリックになり得るのでは、とわたしは思う。
この世界に”見えている光景”とは一体何なんだろう。
イメージしてみる、例えば今わたしは雑踏の中におり、多くの知らない人達がさまざまな
行動をしている、そしてわたしがそれらの人々を見ているときに、
単に視覚の刺激だけではなく、わたしの脳は個別の解釈や判断を持ち込んでくる。
視覚は他の感覚器官と別の印象を持ち、視覚だけはストレートな感覚を得ていない。
我々は”見ている”だけではなく、視覚からの刺激をうけて”思考している”のだ。
他の感覚器官は匂いも味も手触りも音もそれらはダイレクトなものだ、
一方的に飛び込んでくる。でも視覚は我々は日頃何かを見ているとするが、
それは見えたものへの解釈であり、その思考を見ているに過ぎない。
では、その思考が起こる直前に見えているものとは何なのか、それは味や匂いなどと同じの
五感に与えられた刺激、眼球への単なる刺激なのだ。わたしが見ていた雑踏の中の光景は、
その眼球と思考の2つの刺激が視覚に与えたことなのである。
つまりは、思考さえしなければわたしの外側には誰もいないのと同じである。
わたしが見ることに意識を向け思考すればその光景が起こる。
わたしの見てきた風景、わたしが知っている人々、わたしの生きている世界、
それらは全てわたしが起こしているのだ。本当は何もかもありもしない、
わたしによってでっち上げられたものなのかもしれない。
生とは現象の連続であり、すなわち人生とは現象の起こる一時の空間のことなのであろう。
人生そのものが現象の連続であり、その幻影であるのだとすれば、
全てのものはその幻影によるトリックということで合点するより他ないのだろうか。
時として人生における現象は白昼夢のように儚いのかもしれない。
そして気付いた時にはもう遅く、わたしの目の前にはもうそれは存在しない。
Ashoka
0コメント