孤独とは何か、孤高とは何か

”サイの角のようにただ独り歩め”と、仏陀は経典スッタニパータの中で説いている。

インドサイという動物は他と群れずに単独で行動することから

”サイの角のように”というこの表現は”孤独に”という比喩であり

仏陀はスッタニパータの中で、何度も我々に孤独であれと勧めている。

仏教やヨガ哲学の経典の中で、我々に孤独を勧める理由は、我々人間の悩みや

苦しみは人との関わりに起因するとの考えからで、そもそもの苦悩を生み出す原因が、

人との繋がりにあるとするならば、そこから一度自分を切り離し、

自我を徹底的に見つめることが、自己の心の進境に必要だとしている。


孤独とは一体何なのだろうか。人間は本来、誰もが皆独りである。

”独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来たる” 

あなたの隣に沢山の友人や愛する誰かが存在していたとしても、

あなたが孤独でないとは限らない。そして私の隣には誰一人として存在していなくても、

私が孤独だとは限らないのだ。


人間が孤独を感じるのは、沢山の人の中にいる時であり、きっとその他者との繋がりを

感じられない時や自身の承認欲求が満たされない時なのである。

そして心の底から繋がりたいと感じる他者が現れて、その他者と繋がるという喜びを

一度知り、それを失った時に人は耐えられない孤独感に押し潰されることになる。


我々は一人になることを怖れ、他者と繋がりをもとうと自身を認めて貰おうと

右往左往し、そしてその結果として、何度も同じ苦痛を味わうことになる。

もし私が生まれた時からひっそりと独りぼっちで生活していたならば

そもそも孤独という概念そのものが存在しなかったであろう。

孤独は自身の中から生まれるものではなく

人との繋がりの中から生み出されるものなのだ。


今日のSNSの普及のおかげで、私たちはまるでコンビニでおにぎりを買うくらいに

簡単に誰かと出逢え、そして簡単に誰とでも繋がりをもてる。

人間はみんな孤独を恐れるが故に、誰かと繋がろうと努力する。

そして、その人との繋がり、ソーシャライズの枠からはみ出してしまうと、

自身の心はある種の虚しさを感受し、孤独な人間は周りからも異端とされてしまう。

しかし仏陀が説いたように、孤独であることは孤高であるのではないか?

孤高とは、人との繋がりを自ら避けたり誰とも交わらずに孤立するということではなく

たとえ独りぼっちであったとしても自分の信じる道を歩み、

自分で自身の価値を見いだせるということだと思う。

孤高な人間の精神は安定している。そして孤独というものは、

いつしか孤高に変容するのではないかと思う。


スッタニパータの中で仏陀は、

”もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、

あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気を落ちつかせて、彼と共に歩め”

”しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならば、

譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め”

とも説いており、


心の成長に共に励める、自身を成熟させてくれる優れた友が

我々の前に現れたのなら、その優れた友との交流を勧めており

もしその優れた友が現れないのであれば、

妥協して誰かと群れるのではなく、一人で居ることを選べということである。

そしてこの優れた友というものは、決して対人関係の中の人間だけを

意味している訳ではないと私は思う。

時に自身を向上させてくれる学びや知識、

時に我々が真剣に取り組む職務なども友になりえる。

自身の精神を成長へと導いてくれるものは全て友と呼びえるだろう。


以前ある人との会話の中で孤独死の話になり、孤独死も悪くはないと

肯定したその人に対して私はそれをとても否定的に捉えて反発した。

でも今考えると、孤独死ではなく”孤高死”であれば、悪くはないのかもしれないと思う。


Ashoka