あなたの心はどこにありますか?
ヨガが単なるポーズをとるだけのエクササイズではないということは、
一般的にも知られるようになってきていて、レッスンに来られた生徒の方にも、
ヨガ哲学的な質問をちょこちょこと受けるようになってきた。
ヨーガスートラの第1章の第2節目で、パタンジャリが
”ヨーガとは、心の働きを止滅することである” と説いているように、
ヨーガとは心の作用をコントロールすることで、簡単に言ってしまえば、
ヨーガは心を扱う哲学だ。では"心"とは何だろう?
カタ・ウパニシャッド(古代インドの一群の哲学書)の中では、
私たちの心と身体と感覚器官などが、10頭立ての馬車に例えられている。
10頭の馬は、10種の感覚器官(運動・知覚器官)を介して、現実世界からの刺激を
感じる”心”で、その10頭の馬達(感覚器官と心)は放っておけば、あちらこちらを
フラフラしたり、時には暴走したりする。そこで御者(理知・知性)が、手綱(意思)を
用いて、10頭の馬(感覚器官と心)を制御する。御者が手綱をしっかりと制御出来れば、
馬車(肉体)は乱れずに安全に道(感覚の対象)を進んでいく。そして一見すると、
この馬車の行き先を決めているのは御者のように思えるのだが、実はそうではなく、
この一行の主人は御者ではなく、馬車に乗った車主(真我・純粋な意識)だという。
そしてこの車主(真我・純粋な意識)は何が起きようがいつでも穏やかであり、
人生における本当の主人公は、このいつでも穏やかな”真我”だということなのだ。
ちなみにサーンキヤ哲学では、この世界はプルシャ(真我・見る者)と、
プラクリティ(それ以外の全ての被造物・見られるもの)という、
精神的根本原理と物質的根本原理のこれらの2つからなるという考えで、
プラクリティ(見られるもの)には、私たちの身体のみならず心や潜在意識も含まれ、
刻一刻とその姿を変えているが、プルシャ(見る者)は不変不動であり、時間も空間も、
実体もない”純粋な意識”とされる。そして見られるもののプラクリティによって世界は
変えられているだけで、見る者のプルシャ(真我)は何も変わらないということなのだ。
鏡のように澄んだ湖の湖面を覗き込み自分の姿を見ても、そこに映る自分の姿は歪まない。
しかしその湖面に石が投げ込まれ、波打った状態の湖面を覗き込んだ時に映る
自分の姿は歪む。でもその歪んだ自分の姿は本来の自分の姿ではない。
単に投げ込まれた石によって湖面が波立ち、そう見えているだけなのだ。
もし心が湖だとするならば、心が思考形成を止めている時の本来の心、
真我、純粋な意識の私たちは、静かな湖のようにとても穏やかで、澄んでいる。
水面が波打っていたり、水が濁っていたりすれば、そこに本来の自分の姿は映らない。
だから私たちはその湖を澄んだ、波のない穏やかな状態にしなければいけない。
外界に見る差異の全ては心の作用の所産であり、世界は全て我々自身の投影物なのだ。
私たちの心は感覚器官によって、10頭の馬のようにあちらこちらをフラフラとしており、
その度に馬車は大きく揺れ、時には暴走もする。それをどう扱うか、心を味方につける術や
ヒントを、ヨガ哲学は教えてくれている。具現世界では実態もなく、見ることも触ることも
出来ない”心”というもの、しかし一人でに彷徨い、私たちを困惑させる”心”というもの、
この、”心とは何か?”という壮大なテーマは、どれだけの問いを繰り返してみても
答えには到達出来ないけれど、目に見えないからこそ知りたい、心とは何か?
心はどこにあるんだろうか?ということ。
ヨガでは”心”をもっと細かく分析している。ヨガの考え方では人の体は5つの層から
出来ているという教えがあるのだが、これをパンチャコーシャ(5つの鞘)と呼ぶ。
簡単に説明すると、1番目は眼に見える物質的な肉体の鞘、2番目は生命エネルギー、
5つの生理機能と行動器官の鞘、3番目は感情や思考、心と5つの感覚器官の鞘、
4番目は知性や理性、記憶と判断力の鞘、5番目は真我、歓喜の鞘となる。
1番目が外側で粗雑な層になり、5番目の中心に向かうにつれて繊細な層になっていく。
そしてこの5鞘の中で心に関わるのは、3番目と4番目の理知鞘と意志鞘で、
”心”というものが、理解や記憶としてのマインドとしての働きの心なのか、
ハートで感じる感情としての心なのか、思考や感覚としての心なのか、
細かく分けて考えられている。
そして、心がどこにあるのか?ということに関して、ヨガ的な考え方で言うと、
ヨガでは脳で何かをするという考えがないので、心は身体の内側全体にあるということに
なる。喜んだり悲しんだり、人を愛するなどの感情としての心ということであれば、
胸の真ん中に位置する4番目のチャクラ、アナハタチャクラ(heart chakra) の位置に
なるのだろう。このアナハタチャクラは、愛情、慈愛、共感、受容などの、感情に関係する
エネルギーのポイントになる。私達が嬉しい時やびっくりした時に胸を押さえたりするが、
胸には心臓も位置することから、ヨガでは胸には大事なものがあると考えられている。
ハートで喜びや悲しみを感じるというのは、感覚としてもわかりやすいと思う。
心という働きをどこに見出すかは、時代とともに変遷してきているようで、
古代のメソポタミア文明では、相手の感情と一体化する感覚を性器で感じるという
表現があったそうだ。紀元前にはそれこそ頭で考えるのではなく、
本能的な反応が心だと思っていたのかもしれない。そのあと紀元後には新約聖書で、
心臓などの内臓と感情が同期する表現が生まれ、そして古事記では腹で感じたことが
人間の本音だという表現がされている。昔から人々は体に偏在する部位の中で、
センサーのように何らかの働きを感じる部分を”心”と呼んでおり、昔の人が性器や臓器、
腹で反応としてキャッチしていた心という概念は、脳科学が発達し脳を重視している
現代では、脳から生まれるものが心だと感じやすいし、脳と心を繋げて考えることが
しっくりくるのかもしれない。
その一方で現代の私たちは頭で考えすぎて、脳以外の体の部分の感覚を感じとることが
少なくなってきており、感覚をキャッチする働きも鈍くなってきていると思う。
現代社会、特に都会の生活の流れでは、感覚を遮断することで人々は自分自身を
守っている。例えば、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗り込む時や、
人混みの中を歩く時に、感受性を研ぎ澄ませているとそれは不快でしかないので、
時に私たちは感覚を遮断しないと生活が困難になるからだ。
そして感覚の遮断は感情の遮断にも繋がり、感情でさえ必要性や合理性や効率などの
ものさしで測られてきていて、機械化しているようにも感じる。
習慣というものは恐ろしいもので、感覚や感情の遮断が癖となり習慣化してしまうと
そのうちに人々は遮断を意識しなくても、遮断した状態が普通となり、
そしてその機械のような状態が、通常の自分にいつしか変容してしまう可能性がある。
沢山の人達が自分の心の部屋の窓とカーテンを終日閉めきった状態にしている。
でもあなたが機械ではなく人間である以上、間違いなくあなたの心の部屋の換気は
必要だし、日の光も必要だ。たまには全ての窓を全開にし空気を入れ替え、
光を入れなければいけない。頭で考えたり、意味を求める思考から時には離れてみて、
身体全体で自分自身の心と体の感覚や働きを感じとったり、
宇宙や身体の隅々の小さな反応をキャッチしようと意識するそういう作業が、
あなたの心が今まで感じとったことのない感覚や感情を目覚めさせてくれるかもしれない。
宇宙には目に見えていなくても数千億の星が光っているように、
私たちの身体のあちらこちらでも心という働きは何かしらを発し続けていている。
それらをあなたの身体のどんな感覚で捉えることができるだろうか、
あなたは自分自身の心をどこに感じるだろうか。
Ashoka
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