言葉には限界がある

言葉というものはとても優れたツールで、私たちは言葉によって私たちの思考を

概念化している。概念化した思考を言語を使って置き換え、そして並び替え、

私たちは言葉によって物事を思考している。

思考という段階において、言語化できない物事、事象について

そもそも私たちは思考することはできない。

そして、その言葉には限界がある。私たちは言葉という囲いの制限の中で思考しており、

つまりその言葉の限界が、人間の思考の限界だということだ。


私たちは、言葉を使い世界の全てを認識、解釈、表現する。

私たちの母国語の日本語では、大人でおよそ3万語の語彙数を使いこなしているというが、

この言葉たちは先人たちによって創られたもので、私たちはそれらの言葉を

知り、理解し、解釈もしくは経験し、ようやくはじめて言葉を使うことができる。

私たちは様々な事象や現象や存在や概念に、名前をつけ言葉によって世界を分類している。

言葉の発達は人類の発展とともにあり、そしてその発展とともに言葉による規定も

生まれた。言葉によって世界の全てを認識、解釈、表現するには限界があり、

そして、ある1つの単語があったとして、その1つの単語に対して人々が同一の

意味を見出すことは難しく、言葉はそれぞれにより解釈されるものであり、

そこには文化的なものや経験なども関係してくる。例えば、ブラジルのある少数民族は

数字や時間、色などの概念を持たず、それらの抽象概念を表す言葉も持たない。

彼らは経験したことしか信じずに、言葉にしない民族なのだそうだ。

彼らには数を数える言葉が無いため、1つのもの、小さなグループ、大きなグループという

表現しか無いという。色に関しても直喩を使うので、例えば赤という表現は”血の色”と

いう様に表現されるとういう。


でも、もし私たちが共通の抽象概念を表す言葉、例えば”青”という言葉を持っていると

しても、その”青”から青みがかった青をイメージする人もいれば、緑がかった青をイメージ

する人もいる。他の人と自分が同じ色の見え方をしているという確信など出来ないし、

私たち皆が青や黄や赤を同じ色としてみているのかは実際には解らない。

しかし、私たちは血の色を赤、レモンの色を黄色と呼ぶことを共通認識としている。

同じ様な例として、”愛”という言葉で考えてみた時に、その言葉にもそれぞれが異なる

印象を持ち、私があなたに”愛”という言葉を用いて語る時に意味する”愛”とは、

それを聞いてあなたが理解する”愛”とは同じではないのかもしれない。

愛を辞書でひくと、”慈しむ心”、”そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち”や、

”人が思いあい、親しみの心でよりかかる”と書かれている。

恐らくそれらの意味はほとんどがみな共通認識していると思うのだけれども、

きっとこの言葉にも落とし穴があり、限界が生じると思うのだ。

なぜなら、人の数だけの愛が存在し、経験によってその解釈も表現も違うからだ。

時に言葉の概念には、その言葉を発した側や受け取り側の経験も関係してくると思う。

例えば、彼女が今までの人生の上で100の愛を経験してきたとしたら、

彼女の愛という言葉の概念には100の濃度のようなものが生まれ、その経験を踏まえて、

愛を認識し解釈し表現も出来るだろう。愛という言葉を受け取る場合の時にも、

彼女は100の経験の濃度で愛という言葉を受け取れるだろう。

しかしもし彼女が今までの人生で愛を感じる経験が0だったとしたら、

前者と後者の”愛”という言葉の概念には、間違いなく大きな相違が生まれるのだろう。

文化的な一般的な”言葉の意味”での愛は、辞書でひいて出てくる説明のように、

私たちはお互いに共通認識のようなものが得られるかもしれない。

しかしコミニケーション上での意思疎通として、もし前者の概念でどれだけ愛という

言葉を発して表現したとしても、後者の概念でその言葉を受け取り解釈していたとしたら、

その愛という言葉は同じ概念を持たないので、前者の伝えている”愛”は伝わらない。

そういう意味では言葉を使ってのコミニケーションにも限界があるのではないだろうか。

生まれた時から盲目で色の無い世界で生きている人に、目が見える私たちが生きている

この世界の色を言葉で説明することが不可能に近いように、時に言葉は限界を持つ。


哲学者のヴィトゲンシュタインは言葉はどのように意味を得るのかについて考えた。

彼は言葉はそれがどのように使われるかによって定義される、つまり私たちがその言葉を

別の形で使い始めれば、その言葉の意味は変わり、私たちはその場での言葉の使われ方

から、その意味を理解しなければならないと考えた。後期の彼の理論で、”言語ゲーム”と

呼ばれている概念があるのだが、言葉とは、客観的な根拠によっては成りたっておらず、

伝統、文化的なものによって決められた、生活様式や規則を根拠にして成り立っているに

すぎず、言語は数学のような演繹的なものとは異なり、生活そのものから反映されるものだと

いうことだ。”言語ゲーム”は生活の上での経験に関係する形式をとり、言語とはそれらの

規則に基づき行われる営みなのだと。そしてこの”言語ゲーム”の規則は、あらかじめ

規定されているわけではなく、経験に応じて決まってくる慣習的なものなので、生活様式が

変化すると”言語ゲーム”の規則も変わり、規則に絶対的な根拠はない。そしてある種の言語の

規則は、私たちが生活の上で、十分な経験を得たときにしか成りたたないものもある。

ヴィトゲンシュタインは「語りえぬ事象については、人は沈黙するしかない」とも

言っている。


真理の追究に様々な言葉を使って、思考や表現をすることは人類の普遍的作業であるが、

でも、言葉を多用すればするほど、真実とは見当はずれな方向へ行きかねない時もある。

そしてそれが、人とのコミニケーションである場合、言葉というものは相手によっては、

それが私によってどう使われたかの定義通りには伝わらない。

私にとってはその言葉が存在するとしても、相手には存在しないかもしれない、

たとえそれが共通の言語を持つ相手であったとしてもだ。愛を伝えたい人がいたとして、

どれだけその伝えたい想いを辞書を開きながら言葉にし、何千文字ものラブレターを

書き綴ったとしても、相手には全く伝わらないことも事実なのだ。時に私たちは

言語ゲームの上で、相手が本当のところ何を思ったり考えたり感じているのかが、

全く理解できないこともある。そして、愛情や感情表現ということにおいては、

もしかしたらどこかの少数民族のように言葉を用いずに、手と手を取り合ったり、

抱きしめあったりして、肌や体の温もりから気持ちを伝えあう方が、何千文字もの言葉の

コミニュケーションを介するよりも、優れていて伝わるものなのかもしれない。


わたしはコミニケーションにおける大切な場面で、いつも言葉の選び方を間違えて、

伝え間違えてしまう。わたしが選んであなたに伝えてしまった言葉だって、

後でその言葉を見つめなおしたら、選び間違えたことに気づき、深く後悔するのだ。

そしてそれは解釈においても同じで、あなたによって伝えられた言葉もわたしはきっと

さまざまな場面で大きく受け取り間違えているのであろう。そう考えると言葉なんて

ものは、ある場面においては単に邪魔なものでしかないのかもしれない。


Ashoka