自殺は悪なのか

日本ではここ数年、9月1日は一年で最も18歳以下の子供の自殺が多い日らしい。

その割合は他の日に比べて3倍近くにもなるという。夏休みが終わり、学校という彼らの

世界が恐らくただの絶望でしかない子供たちにとっては、その世界に戻ることは地獄の

苦しみでしかなく、彼らなりのその時の最善の選択として、自殺を選ばざるを得なかったの

だろうか。社会の一般的な考えや世論では自殺というものは、良くないこと、間違っている

こと、完全悪だと決め付けられており、その決断に至るまでの背景がどのようなものだった

かを知らずとも、そしてそれにどのような意味があろうとも、一般的な秩序や規範の維持と

普及の為か、「命を粗末にするな」「自殺は絶対にいけない」「生きていれば必ず良いこと

がある」だから死ぬのは駄目だと、メディアではこぞって、それらの常套句を繰り返して

いる印象を受ける。そして「貰った命を粗末にするのは自己中心的な親不孝者」などと、

時には大きく非難を浴びることもあり、自殺というものは根性無しや臆病者が、人生から

逃げ出す最悪の手段だと考えられているのかもしれない。もしかしたら社会は、

自殺を倫理的、道徳的に悪だと定義することで、減らそうと考えているのだろうか。


人間である以上はきっと誰だって、漠然と”死”というものに恐怖を感じていると思うし、

当たり前だが、我々は生まれてから一度も死んだことはない、だから死は未知だ。

未知だからこそ死は怖いし、死んでしまったら恐らくもう二度と生には戻っては

来れない。しかし死ということだけは、我々の未来の予定の中での決定事項にあり、

理由や時期にこそ差異はあれど、死は間違いなく皆に100%平等に訪れる。

寿命として3歳で生を終える者もいれば、100歳まで天寿を全う出来る者もいる。

病気や事故で生を終える者もいれば、他人に殺められて生を終える者もいる。

そして自身で選択した自殺により生を終える者もいる。そしてこの自殺という死は

果たして悪なのだろうか。正しいか間違いかではなく、善か悪かで考えた時に、

自殺という選択肢は決して悪ではないのではないか。人は生を授かる時に自分にはまるで

選択肢はない。しかしその授かった生を、どう使うかやどう終えるかは選択が出来る。

そして、その与えられた生は決して拒否することの出来ないものなのだろうか。

もし与えられた生が限りなく痛く苦しく耐えがたいものであっても、

私たちはこの生に感謝し続けなければいけないのだろうか。


極端な精神的、肉体的苦痛などというものは、私たちが実際に全く同じものを経験しない

限り、完全にそれらを共感することなどは決して出来ないし、絶対的に絶望的な状況を

体験したことのない人間に、同じようにそれをイメージすることなんて絶対に出来ない。

もしあなたが捕えられた捕虜で、来る日も来る日も酷い拷問を受け続けて、

毎日を過ごしていたとしたら、そんな状況下でもあなたは寿命を全うし生き永らえたいと、

自分の生を肯定的に思うだろうか。そんな地獄のような状況の中で、その苦しみから

逃れるために毒を口にすることは悪になるのだろうか。私からしたら、

夏休み明けに自殺を選ばざるを得なかった子供たちも、拷問を受ける捕虜の状況と、

ある意味で同じに思えるのだ。正しいか否かではなく、善か悪で考えた場合、

極端に苦痛な状況下における選択肢としての自殺は、決して悪ではないだろう。

もし私たちの生が尊いもので、その生がどれほど痛くて苦しくとも、

その価値は平等で決して失われてはいけないというのならば、

自殺は自分を殺めることで ”人を殺める”ということは何があっても悪だというのならば、

その定義は人を殺める行為の全てに適用されるべきだ。死刑や、戦争、延命治療の中止、

これらも全て人を殺める行為に含まれるのではないか。ある一定の状況下や定義の上で、

私たちはこれらを容認しているのではないのか。仏陀も自殺を善悪では論じておらず、

原始仏典の中では、自殺は本人にも周りの人間にとっても悲しく辛い行為ではあるが、

罪や悪事ではないとされており、僧侶に対する特別な法律の律蔵(パーリ)の中でも、

他人を殺める殺人は重罪として厳しく罰せられるが、そこには自殺は含まれないし、

自殺を罪だと処罰する規則はない。


私は自殺を悪だとする風潮は嫌いだが、自殺という選択肢が正しいか間違いかについては

正直なところわからない。それが自分の死ではなく、他人の死だとしたら尚更わからない。

もし誰かが短絡的な判断で首吊りという自死を選択したとしたら、ロープを首に巻き、

椅子からいざ足を離した瞬間に秒速で後悔するだろうし、そしてその瞬間にやっぱり

生きたいと思い直してももう遅い。でも誰かが本当に熟考を重ねた結果、理知的な判断で

安楽死や尊厳死という自死を選択し、死に向かう点滴や注射を受けたとしたら、

至福の想いでその死に感謝するのかもしれない。その逆も然りで、それでもやっぱりもう

少し生きたかったという本能が、最期の最期に芽生えて後悔するものなのかもしれない。

どれだけ私たちが、もうおさらばしたいと思うような生でも、最期の瞬間に何を思うかは

未知だ。現世では誰もがみな身体も心も心地のよい生活を求め、限られた時間を使って、

充足にあやかりたい、幸せになりたいと願う。誰だって身体やこころが痛いのは嫌だ。

もし激痛の中にあなたが居たとしたなら、助けを求めたいだろうし、

そしてもし誰も助けてくれないのであれば、自分で自分を助けてあげるしかない。

桃源郷がもし目の前に見えたとしたなら、皆がそこに迷いなくダイブしたいだろう。

人が生の中で毎回正しい選択をし続けられないように、人生における最も重要な

選択の時でも、人は間違えそうになることや間違えることだってあると思う。

ただ、もしあなたがまだ成人もしていないほどに若く五体満足で、身体には痛みもなく

少なくとも健康であるとしたら、死を選ぶのはちょっとだけ延期してみて、まず世界を観る

視点を少しだけ変えてみたらどうだろうかと思う。あなたが観ているその世界が世界の全て

ではないし、あなたが存在しているその世界も世界の全てでは決してない。

学校に行きたくなければ行かなくてもいいと思うし、たとえ今一人ぼっちだったとしても、

未来のあなたには親友や恋人と呼べる人が現れるかもしれない、勉強したくなければ

無理にしなくてもいいと思う、ただ誰か自分が尊敬できる人物を見つけたり、

興味を持てる物や分野を探して、嫌なことや辛い世界以外の別の世界に意識を置いて、

自分の世界を創りあげていくことで、あなたの生に随分と鮮やかな彩りが生まれると思う。

視点の変化で世界の景色がどう変わるかは未知数だし、その変化というものは若さに

比例して大きくなるものだと私は思う。


自らで死を招かなくとも、死はこちらから招かなくても、いつかは私たちの前にやって

くる。私たちがいくら拒もうともいつかは必ずやってくる。そしてある日突然肩を叩かれて

死を告げられても、残念なことに私たちに死の拒否権はない。どんなに美しい完璧な物語で

あっても、地獄のように酷い物語であっても、いつかは全て終わる。そしてその物語に

句読点を打って続けていくのか、終止符を打ってしまうのか、それは完全に個人の自由で

あるけれど、終止符に関しては一度打ってしまったら、もう二度と物語を戻すことは

出来ない。だから私たちはどちらを選ぶのか、限りなく慎重にならなければいけない。


Ashoka