コスモスとカオスの間で考えてみる

”秩序があるものは、その秩序が崩壊される方向にしか動かない" という、エントロピー増大

の法則に、我々人類の生命や生活を含めて万物は支配されているという。

このエントロピー増大の理論とは熱力学の第二法則で、簡単に説明すると熱は熱い方から

冷たい方へ向かって流れ、逆には流れないという経験則のことで、この ”熱は高い方から

低い方へ流れる” ということを、より汎用性が高い言葉に言い換えると、エントロピーの

増大ということになる。エントロピーとは無秩序の度合いを示す物理量のことになり、

このエントロピーは無秩序になればなるほど高くなり増えていくという。日常的な事象で

敷衍してみると、綺麗に掃除をした部屋だって1か月も経てば埃をかぶり物が散らばり

ぐちゃぐちゃになり、温かい紅茶もやがては冷たくなる。どんなに激しく燃え上がった恋愛

もやがては落ち着き、床にこぼしてしまったコップの中の水が再び自然にコップの中に戻る

ことはないし、一度コーヒーに混ぜて拡散したミルクが再びミルクだけに戻ることも無い。

これらはすべて ”秩序があるものは、その秩序が崩壊される方向にしか動かない"という、

エントロピー増大の法則に基づいている。世界は常にエントロピーが小さい方から大きい方

へ、秩序から無秩序へという方向に進んでいる。秩序あるものは全て不可避的に乱雑さが

増大する方向に進んでいき、その秩序はやがて失われていくという。


宇宙はどんどん膨張し続けてエントロピーは増え続けている。このエントロピーの法則は

全宇宙に容赦なく当てはまり、私たち人類もエントロピー増大の法則と闘いながら、他の

生物の死、エントロピー増大によって得られるエネルギーを利用し、一時的に恒常性を

保ちながら生命現象を営む。他を犠牲にしてエントロピーの増大に一時的に逆らい続けて

いる。そして私たち人間は、日々分解と合成の最中にある。細胞はまだ古くなくても、

故障していなくても日々壊れ続けている。わざわざエネルギーを使って、生物は積極的に

自らを壊して新しく合成する。積極的に壊してまた造り直すことで、補完されて回っている

という。少しでもエントロピーの法則に抗するために、生物は自らをあえて壊すことを

選んだということだ。壊し続けることで状況は不安定になるけれども、それによって次の

合成の工程が立ち上がり、エントロピーが増大する前に先回りして自分で細胞をどんどん

壊し続けることで、常に新しい細胞が生まれる状況を維持しているのだという。最初に

分解(エントロピーの増大)があり、合成(自己組織化)が起きるという循環を、

絶え間なく繰り返し続けることで、安定を造り続けている。自ら率先して分解合成をする

ことで、必死に増大するエントロピーに先回りしているのだが、宇宙の逆らえない大原則の

もとでは、その努力も徐々に損なわれていき、煩雑さは少しづつ細胞内に留まっていく。

そしてやがてエントロピーの増大は、こういった我々生物の営みを追い抜いていく。

それが死ということになる。


10代20代の時に運動などであまり身体を動かしていなかった私は、30代から本格的

にヨガを始めたことにより体力がついて柔軟性も高まり、20代の時よりも自分の身体が

若返ったような錯覚に陥り喜んだ。だが実際のところ生物学上では、人間の体力は20代

半ばをピークとして徐々に衰えていくらしい。外見的にはまだ変化が現れない20代半ばで

既に体の中では老いが始まっていたとは気づく由もなかったのだが、老化とはまだまだ無縁

だと思っている20代の若者でも既に体内では老化現象は始まっているのだ。身体的に歳を

とるということは決して嬉しいことでも楽しいことでもないし、出来る限り元気で若く

いたいと思うのが人間の普遍の願望だとは思うが、歳をとることは決して悪いことばかりで

はないと私は思う。歳をとるということは色々な経験を経て強さを身につけ、身体だけでなく

精神も成熟していくということだ。様々な人生経験の中で私たちは色々な気付きを得て

いく、若い時ほど悩む必要の無いことで悩んだり、色々なものをあれもこれもと欲して

右往左往したりするものだけれども、歳を重ねていくと肯定的な諦めのようなものが

出来るようになってくると思う。起きてしまったことやどうにもならない問題、

手に入らないものに対しても清く仕方がないことだと受容できる、時に肯定的な諦めは

幸せになることの方法の一つだと気付くことが出来るようになる。ここでの意味での

”諦め”とは一般的な意味で解釈されている”逃げる”という意味ではなく、人生における

どうにもならない不可避な問題や厄介事はどんなに悩んだって仕方のないことだから、

その事実をただ明らかに眺めていれば良いと、事実は受容するがそれによって悩み疲弊する

必要などない、という意味での諦めだ。そもそも諦めるの日本語の意味は ”明らかにする”に

近く、言葉としては”諦める”と”明らか”は実は同源で、物事の真実の姿を明らかにすること

で、ようやく諦められるという意味を元は含んでいる。そして仏教での諦めるという言葉の

意味は、サンスクリット語のsatyaの訳語として、真実、真理、悟りなどを意味している。

人は歳を重ねていく人生経験の中で、ゆっくりと”諦める”ということを学んでいくのだと

思う。だから老いるということは決して無駄に身体も心もくたびれていくことではない。

若さから老いを経て、一生涯を通してゆっくりと私たちは生の意味を学んでいるのだろう。

そして若さも命も無限ではなくいつか終わりを迎えることで、何事にも限りがあると気付く

からこそ、有限の時間の使い方や健康な身体や心のありがたみ、大切な人達との繋がりの

大切さについて感謝できる。40代を目前にした私は少なくともそう感じている。

この広い宇宙では富を持つある一部の人間は永遠の生を求めて、自分の肉体を冷凍保存して

将来蘇生の技術が発展することを期待して解凍されるのを待っているというが、

私は永遠に生きられる選択肢があってもそれは選ばない。死ぬことよりも永遠に生き続ける

ことの方が寧ろ恐怖である。生きることが永遠の義務となった時点で、生への興味は

失われるような気もする。どんなに楽しい宴だって終わりがなく永遠に強制参加しないと

いけないのならばそれはもう恐怖でしかない。宴は終わりがあるもので刹那だからこそ

楽しめるものなのではないだろうか。


仏陀が説いた”諸行無常”は、万物で永久不変なものなどない、つまり万物流転という教えで、

この教えはエントロピー増大の法則と通ずるものがある。エントロピー増大の法則は

諸行無常という概念を数式化して表せられるものだと思う。

そして”苦諦”は、万物は必ずエントロピー増大の法則に追い抜かれる、即ち我々人間は

老いや死からは逃れられないということに通じており、”諦念”は、エントロピー増大の

法則の流れに身を任せることそのものなのではないだろうか。時計の針はエントロピーが

増大する方向にしか進まない。逆に進むことなどは有り得ない。人の身体も心も変わる、

そして人はいつか必ず死ぬ。この当たり前の真理を時折思い出すことで、大抵のことは

凌ぎ切れるし、今を大切に出来るのではないだろうか。


Ashoka