選んでいるのか?選ばされているのか? 自由意志という錯覚
”Life is a series of choices” ハムレットの中でのシェイクスピアの有名な言葉通り、
人生において私たちはたくさんの選択の中で生きている。
”人が自分の意思で自由に考え選択し、自身の行動を決めている”という、
この一見すると当たり前のようなことは、誰も疑うことのない事実として一般的には
認識されているけれど、これが実のところは疑わしいことではないのだろうか?と、
哲学および科学の世界では、長きに渡ってのテーマとなってきた。
80年代には科学の世界において、人間の心も結局は電気信号で構成されており、機械と同じ
ようなもので、そこに自由意志というものは無く、自由意思を持っているというのは錯覚で、
心というものも実のところは電気信号で自動的に動く機械のようなものではないか、
という論争がされており、ベンジャミン・リベットというアメリカの神経生理学者の
1983年の脳の研究で、この”自由意志”に関する論争を決定づけるような、衝撃的な実験結果が
発表された。その実験とは、次のようなもので、脳の電気信号を測定する装置を被験者に
取りつけ、その被験者たちに自分の好きな時に手首を曲げてもらい、そして被験者が手首を
動かしたその時の脳の電気信号を測定するというものであった。人間は体を動かすときに、
実際に動く少し前に筋肉を動かす指令としての電気信号が脳から出ることが知られており、
実験では次のような順序で現象が起こることが予想されていた。
①意志の自覚 手首を動かそうと意識する
②脳活動 脳が手首を動かすための電気信号を出す
③運動 手首が実際に動く
手首を動かそうと意識して脳が電気信号を出して手首が動くといった、
このような結果になると思われていた。しかし実際の実験の結果は次のような結果だった。
①脳活動 脳が手首を動かすための電気信号を出す
②意志の自覚 手首を動かそうと意識する
③運動 手首が実際に動く
手首を動かそうと意識をするよりも前に、脳から手首を動かすための電気信号が出ていた。
これは被験者たちが手首を曲げようという意志を自覚するよりも前に、脳活動は起きていた
ということになり、つまり人間の意志が生じるのは脳活動という現象が原因で、
その結果にすぎないという解釈が成り立ち、手首を動かそうと人間が意識するよりも前に、
すでに手首が動くことは決まっていたということになる。手首を動かそうと意識したから
動いたわけではないということだ。
ベンジャミン・リベットはこの実験で私たちがある動作をしようとする、”意思決定” よりも
以前に、”準備電位”と呼ばれる無意識的な電気信号が立ち上がるのを、脳科学的実験により
確認した。私たちが何か動作を始める約0.2秒前には、”意思決定”を表す信号が現れる。
しかし私たちの脳内では、その”意思決定”を示す電気信号の約0.35秒前に、それを促すような
無意識的による準備電位が現れているという。つまり私たちがこうしようと、意識的な決定
をする約0.35秒前に、すでに脳によって無意識的に決断が下されているということになる。
この結果は勿論世界に衝撃を与えた。この実験から分かったことは、自分の意思で手首を
動かそうと思ったから手首が動いた、というような普段人間が感じている、
”自分で自分の意志を決定しているという感覚” は、錯覚だったということだ。
その意思よりも以前に無意識的な電気信号によって手首が動くことは決まっていて、
その指令は脳から出ておりその手首が動く過程の途中で、動かそうと意識が後追いで
思っているということになり、意識が最初に動かすことを決めているわけではないと
いうことだ。意思決定というものは、実はそれより前に起きている脳の活動によって
予め決まっているということになり、要するに脳内で起きている物理現象によって人間の
意志は生じるという事実を濃厚にし、ベンジャミン・リベットのこの実験は、自由意志とは
幻想であるという支持をする者達にとって、科学的な根拠とされた。
だけど、本当に自由意志はないのだろうか?本当に私たちの感覚がみせる自由な選択は、
無意識下の過程における科学的な脳の結果に過ぎないのだろうか?人間は自分が意識や
意図しない脳の仕組みに動かされていて、自分の意志では行動を決められないのだろうか。
私たちの脳はどういった理由からか、自由な意志をもつという揺るぎのない感覚や自信を
生じさせている。リベットのこの実験は、一般的には自由意志を否定するものと捉えられて
いるのだが、実は意外なことに、この実験結果を出した当の本人であるリベットはのちに
人間に自由意志の余地はあると言っている。論争を巻き起こした上記の実験の論文の数年後
に行われた実験では、多くの場合の被験者は、①の準備電位と②の意識的決定のわずかな間
に、動作を拒否する選択ができたという。上記の実験の①の準備電位と②の意識的決定の間
に、手首を動かすことを拒否するための短い時間があり、その時間の間に人は自分の意志で
行動を止める(拒否する)ことができる。だから人間に自由意志の余地はあるという解釈
だった。しかしこのときの実験では、被験者らが決断をした後に拒否が出来たのか、
それとも意図や衝動といったものを拒否したのか等の曖昧なところが問題とされたらしく、
そもそも”拒否する”という意志もまた脳活動から起きているのではないかという問題もある
のだが、リベット本人は、その後の実験結果を自由意志の証拠として捉えたかったようだ。
人間の意識とはいったい何なのか、脳のニューロンの電気信号から人の意識が作られている
と科学者達は考えており、でもどのように電気信号が人間の主観的な意識を作っているのか
どのように人は様々なことを考えているのか、2019年の今現在でも科学的にはその仕組みは
まだわかっておらず、世界中の研究者がこの仕組みを解明しようとしている。
しかしこの研究はとてつもなく難しくまだまだ解りそうにないという。
どうして人間には意識が存在する必要があるのか。脳が私たちの意識の外で物事を判断して、
意思決定をしているのであれば、わざわざ意識というものを作りだして、こうしよう
ああしようと、考えたり判断する幻想を見る必要がないのに、私たちはどういうことか
意識を持ち、今日はカレーを食べよう、紅茶を飲もう、あの人にメールしよう等と自由に
決断した気になっている。しかし実際には、脳が勝手に判断した決断を見せられていると
いうのが正しいのだろう。科学的にでさえ、私たちは私たち自身を操縦しているの
ではなく、私という人間を観測している観察者に過ぎないという考えが正しいのだろうか。
もし私が行うことは、脳からの電気信号が意識より前に走っていて、意識が後からそれを追認
しており、私の意志の力によって行なっているのではないという事実があったとして、
私自身が起こすことでさえ、ある意味でかなりコントロール外である可能性があるのだと
したら、もうその起こした行動やその結果や状態をどれだける許容できるかや愛せるか、
起きている事とただ共にいるという柔軟さが大切なのかもしれない。
時に自分でも意味のわからない、よく解らない行動を起こしてしまう私には、
自由意志は錯覚という説は妙に合点がいき、納得せざるを得ない。
Ashoka
0コメント