記憶と真実

真実というものは記憶の集合体で、時に曖昧な記憶が真実のふりをして私たちの前に

のさばっていることもあるそうだ。実際に起きた現象や現存する事実だって、それが私たちの

記憶上から消えたとしたならば、それはもう無かったも同然で、言い換えれば、その記憶の

持ち主の記憶を消せば 、真実なんて消えてしまうのだろうかと、時々わたしは怖くなる。

私たちが保持している記憶でさえ、自分自身によって捏造されている場合があるという。

私たちの記憶は、実際には想起するたびに常に書き換えが行われていて、時に事実とは異なる

物語の集合体のようで、想起される記憶は変化をし実際に記憶している内容から、

記憶したいと思っている内容に近くなるという。人間の脳は曖昧な内容を記憶として再構築

しており、時にそれを事実であったかのように思い出しているという。脳には記憶して

おける容量が決まっており、その為に効率よく記憶して思い出せるよう、類似の記憶は

グループ分けをして記憶するそうで、その際に他の記憶が干渉して記憶を再構築していく

そうだが、時にそれは虚偽記憶となり、実際とは異なる記憶が出来上がってしまうという。

記憶というものはとても移ろいやすく頼りないものだと言える。私たちは記憶装置の

ようには正確に記憶することはできない。科学的には記憶がこれほど変わりやすい理由と

して、記憶を支える神経的な基盤、シナプスを介したニューロン同士の結びつきが固定的な

ものではないからだという。だがその神経的基盤が柔軟であるからこそ、記憶の内容同士に

新たな結びつきが生まれ、私たちはそこに新しい記憶を蓄えることが出来るという。

記憶のもろさは言ってみれば、脳が創造的な能力を持っていることの代償ということだ。


人がどのように記憶するか、という部分はかなり詳細が解明されてきているらしいが、

記憶を忘れたり思い出したりすることに関しては、意外にもまだあまりわかっていないと

いう。ある特定の記憶を弱くするといった技術は、海外では徐々にPTSDなどの治療に

使われ始めているらしいが、記憶を忘れたり思い出すことのメカニズムに関しては

まだまだ分からないことが多いという。記憶は人間が思い出す度に強くなるどころか逆に

元の記憶が徐々にもろくなっていく性質があるというが、一般的には嫌な記憶は残りやすい

と言われている。嫌な思い出がなかなか忘れられなかったり、過去の失敗が蘇ってなかなか

前に進めなかったり、人間は嫌な記憶に振り回されてしまいがちだが、これも脳の仕組みに

関係しているらしい。悲しい辛い出来事は強い印象を伴う。そして人間の防衛本能が働く

ことで、同じ失敗を繰り返さないようにと、脳が嫌な記憶を残しておこうとするからで、

もう一つは自分自身で納得が出来ていない理不尽な記憶などは、ふとした拍子に思い出して、

脳内で情報を反復してしまうことで、記憶として強く残ってしまうという。

人間の脳は失敗や後悔を覚えておくように出来ており、時に強烈な体験や記憶はトラウマと

なって私たちを苦しめる。ネガティブな記憶を忘れるのはとても難しいことだ。


映画の「エターナル・サンシャイン」で、恋人のクレメンタインの記憶を消したくて、

ジョエルが受けようとした、記憶除去手術のような技術は、あと何十年かすれば一般的に

なるのだろうか?この映画を初めて観た当時の私は、忘れたい記憶を削除するという手術が

羨ましくて仕方なかった。2020年頃にはこの技術が実現しているかもしれないと期待した

ものだけれど、恐らくまだまだ時間がかかりそうだ。でも2019年現在のわたしは、

もし今この記憶除去手術が存在するとしても、受けたいとは思わなくなっている。15年前の

わたしよりも歳を重ねて、悲しい記憶や辛い記憶も明らかに増えてはいっているのだけれど、

悲しいけれど忘れたくない記憶もあるし、それがたとえ辛いことであったとしても、

真実は消したくはないと思う。たとえ相手の記憶からは消えてしまった記憶でも、

世界でたった一人わたしだけでも覚え続けている限りは、その記憶は真実であり続ける。

誰かの中に生き続ける限りその記憶は真実だ。エターナル・サンシャインの中でも、記憶を

消そうとしたジョエルが手術中に無意識下で抵抗し、あんなに消したかったはずの

クレメンタインの記憶を消されないようにと、自分の記憶を旅して、彼女を記憶の奥底に

隠そうと脳内を逃げ回っていた。そして結局は記憶が消されて記憶を失っても、ジョエルと

クレメンタインはまた出会い、またお互いに恋をして、またお互いを嫌いになって別れ、

そしてまた記憶を消す。結局二人が記憶を消して、無かったことにした事実は、何度も何度も

何度も繰り返されて、同じ事実となって返ってくる。二人は何度も出会い繰り返し恋をする。

また繋がってもまた別れるだけの運命かもしれないのに。科学が記憶の操作は出来ても、

”二人が出会い、好意を抱き、結ばれ、すれ違い、好意が薄れ、別れ、そして記憶を消しても

その後も何度も繰り返し恋をする” ことは操作出来ないことが、なんだか皮肉なんだけれど、

私はその滑稽な回帰がたまらなく素敵だと思った。


この映画の中で記憶除去手術を行っているラクーナ社が、ニーチェの有名な言葉の

「忘却はよりよき前進を生む」という言葉を引用して、私たちの現状をより良くして

生きていくためには、過去の嫌な記憶を忘れることが大切だ、と言って記憶除去手術を

勧めるのだけれど、”忘れる”ということは、決して”知らない状態に戻る”ことではなく、

知っていて覚えている状態で、それを”許容出来るようになる”ということで、

忘れてしまいたい過去や記憶を何でもかんでも消してしまえばよいということではない。

この映画の中で私が一番好きな場面が、二人が初めて出会った海辺の場面で、時間軸が

遡っていく物語の終盤あたりにあるのだけど、モントークの海辺でのパーティーに参加した

ジョエルは、シャイな性格でパーティーが苦手だから一人ぼっちでポツンと座っている。

そんなジョエルを見て、同じくパーティーが嫌いで、退屈していたクレメンタインが

話しかける。「食べてるチキンを一切れ貰っても良い?」そして返事も待たずに勝手に

取って食べる彼女。それをなんかちょっと嬉しそうに見つめるジョエル。そしてその対称的

なお互いの姿に惹かれ合う。この出会いの場面は本当に何度観てもすごく良い。

記憶除去手術の中で一番最後に消されるのがこの出会いの記憶で、この記憶を削除すると

クレメンタインに関する記憶は全部無くなってしまうんだけど、ジョエルもこの記憶だけは

消されまいと最後まで抵抗していた。その後に彼女との沢山の嫌な記憶が生まれることに

なろうとも、出会いの記憶、初めて彼女に惹かれたこの記憶の場面は消してはいけない真実

だからだろう。この映画を ”終わった恋の思い出を捨てた彼女と、捨て切れなかった彼が

繰り広げる切ないラブストーリー” みたいに紹介している人がいるけれど、クレメンタインは

記憶を全て消したけれど、全ては捨て切れなかったから、ジョエルの記憶の旅の中で最後に

「Meet me in Montauk」って、彼の耳元で囁いたんだと思う。そして出会いの記憶が

消される中、ジョエルは最後に「It would be different, if we could just give it another round」

と、クレメンタインに言う。だけど二人は何度も出会って恋に落ちても結局は別れを

繰り返す。これはなんだかニーチェの永劫回帰のようで、揶揄しているようにも皮肉にも

思えるけれど、でもそれでも結局、”二人は何度も何度もまた出会う” という、そこに大きな

意味が、真実があるのだとわたしは思う。時として誰の記憶からも消えて全て無くなった

ように見えても、真実は一つで、その真実は太陽のようにどこかで永遠に輝き続けているの

かもしれない。


Ashoka