श्रीमद्भगवद्गीता - 行為への専心

12/22に開催予定の「バガヴァッド・ギーターをみんなで読む勉強会」の前に、

バガヴァッド・ギーターを全く知らない方のために、今日はものすごく簡単に

バガヴァッド・ギーターについての説明をしようかと思います。


ヨーガ哲学に興味を持った人や、ヨーガの道を生きる人にとっての必須の2大聖典とは、

「ヨーガスートラ」と「バガヴァッド・ギーター」この2冊になると思いますが、

この2冊は難解な書物として、とっつきにくい印象がある方も沢山いるかと思います。

バガヴァッド・ギーターは、まず登場人物が沢山出てくるので、一回読んだだけでは

全てを覚えられないし、理解も難しいです。しかし私はこの複雑な舞台設定は重要ではない

と思っています。シンプルに物語の流れは、領土問題に端を発した親族同士の戦いに身を

投じることになった主人公のアルジュナ王が、その戦場で敵対しあう親族の姿を見て、

自分やそして周りの人々が一体何をしているのだろう?と苦悩し、戦意を失い戦うことを

拒絶します。そしてこのアルジュナの乗る馬車を駆る御者クリシュナ(後に最高神の化身で

あることがわかります)との対話がストーリーの主軸になるということが解っていれば、

あとはどの章から読んでも問題ないと思います。現にインドでバガヴァッド・ギーターの

授業をしてくれたグルは、「1日1回、目を瞑ってランダムにページを開いて出てきた章を

朗読しなさい。毎回その章のその言葉から新しい気付きがあると思います」と言っていたの

ですが、正にその通りだと思っています。


神から授かった弓で戦う主人公アルジュナは、半神半人の大英雄ですが、自身に課せられた

義務に悩み、戦場を前にして悲しみ苦悩し、涙を流して震える姿は等身大の1人の人間です。

アルジュナの苦悩や悲しみや葛藤は、私たち現代人にとっても共感できるものでもあり、

そしてアルジュナに与えられるクリシュナの言葉は、2000年という時代を超えて、

そして宗教を超えて、私たちの心に深く響きます。

バガヴァッド・ギーターの教えに沿っても一般的な人生における成功などの役には

立たないかもしれません、しかし成功や不成功などを超えた人生の智慧についての、

助けにはなるのではないでしょうか。


第2章でのクリシュナの言葉を、一部抜粋してみます。


「私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも。

また我々はすべて、これから先、存在しなくなることもない。」2-12

「物質との接触は、寒暑、苦楽をもたらし、来りては去り、無常である。

それに耐えよ、アルジュナ。」2-14

「非有(身体)には存在はない。実有(個我)には非存在はない。真理を見る人々は、

この両者の分かれ目を見る。」2-16

「生まれた者に死は必定であり、死んだ者に生は必定であるから。それ故不可避のことがら

について、あなたは嘆くべきではない。」2-27

「万物は、初めは顕現せず、中間が顕現し、終わりは顕現しない。ここにおいて、

何の嘆きがあろうか。」2-28

「苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専念せよ。

そうすれば罪悪を得ることはない。 」2-38

「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機として

はいけない。また無為に執着してはならぬ。」2-47

 「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚

して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」2-48

「実に、(一般の)行為は、知性のヨーガよりも遥かに劣る。知性に拠り所を求めよ。

結果を動機とする者は哀れである。」2-49

「知性をそなえた人は、この世で、善業と悪業をともに捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。

ヨーガは諸行為における巧妙さである。」2-50

「あなたの知性が迷妄の汚れを離れる時、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを

厭うであろう。」2-52

「聞くことに惑わされたあなたの知性が、揺るぎなく確立し、三昧において不動になる時、

あなたはヨーガに達するであろう。」2-53


”行為への専心”は、ギーターのテーマの一つになると思います。しかしその行為は、

行為自体に執着することではなく、結果を動機とすることなく遂行されなければならず、

バガヴァッド・ギーターではこれを「行為の中に無為を見、無為の中に行為を見る」と、

説いています。クリシュナは上記の句で、動機や執着から離れた行為の遂行について、

物質的な束縛からの解脱を果たすための行為について述べています。インドでは、

何か行動を起こせば良い結果になる場合もあるけれど、悪い結果が残る場合があるという

 業(カルマ) が、昔から考えられていました。なので、”世俗は捨てよ”と、初期仏教では

教えられています。しかし大乗仏教や、ヒンドゥー教でもバガヴァッド・ギーターの場合、

社会生活は捨てるべきではないと主張し、あくまで現実の社会を全うすべきであるとして

います。しかし社会生活の上で、社会的義務を果たすとする時に、罪を犯してしまう場合も

出てきます。例えば戦争のある国だとして軍人ならば、人を殺さなくてはならない状況下も

出てきます。そのような場合に、社会的義務を果たして、罪に陥らない為にはどうすべきか

ということを、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナは説いています。クリシュナは、

この世のすべてを平等に見ることが解決法であるといいます。苦楽、損得などの相対的な

全てのことから離れ、すべてを平等に見れば、我々はもはや行為の結果に束縛されることは

ない。クリシュナが、ギーターで繰り返し主張することです。

平等の境地が実現すればヨーガが完成し、全てが渾然一体となって、相対的なものは

無くなっていくと説いています。

そして行為の結果を考えてはいけないとも説きます。必然的に行為の結果が悪いことを

もたらすからと言って、世捨て人のように社会生活や行為を放棄してはいけない。

結果に執着するべきではないと考えています。我々が何か行為をする場合、

その結果を動機とせずに、ひたすらその行為に専念せよと教えています。

しかし、結果を考えずになすべき行為そのものに専念することは、非常に難しいのです。

それではどうすればよいか、クリシュナはヨーガに拠り所を求めるべきであると説きます。

ここでのヨーガとは、「ヨーガは平等の境地である」という、あらゆるものが混然一体と

なった、平等となった状態を表す語であると解釈します。


世俗で生きる私たちには、クリシュナの説く真理には到底近づけない部分があります。

そしてギーターは何度読み返しても毎回新しい気付きと疑問が出てきます。だけど私は

ギーターを通して、世界の矛盾や自分ではどうしようも出来ない諸相の移り変わり、

大きなものに身を委ねて生きていこう、そういった気持ちになり穏やかになるのです。

ギーターを読んでの解釈は人それぞれで微妙に違う部分はあると思います。

12/22の勉強会では、みんながそれぞれに感じるギーターの世界をシェア出来ればと

思っています。


Ashoka